第四章「友との決裂」
直哉は、小さいころから機械いじりに夢中だった。まだ幼稚園児だった頃、壊れてしまった目覚まし時計を分解し、興味津々で中の歯車やバネを観察していた姿が思い出される。その時の彼は、ただ単純に「どうして動くんだろう?」という好奇心に突き動かされていただけだった。だが、直哉はその好奇心を原動力に、次第に機械を修理するだけでなく、自分で新しいものを作り出す楽しさを知っていった。
小学校に入ると、彼は自分の手でラジオを組み立てたり、友達の壊れたおもちゃを修理したりするようになった。友達からは「直哉に頼めば何でも直る」と信頼を寄せられ、彼自身もその期待に応えようと一層腕を磨いていった。ある日、学校の科学クラブで作ったロボットが壊れてしまい、クラスメートたちが途方に暮れていた時、直哉が一晩でそのロボットを修理して動かしたことがあった。彼がその時の満足げな表情は、今でも鮮明に思い出される。
直哉は、いつも玲奈にとって頼れる存在であり続けた。彼女が困ったときには、彼は必ず手を差し伸べてくれた。玲奈が小学校の理科の実験で失敗して落ち込んでいた時も、直哉は一緒に実験をやり直し、成功するまで彼女を支え続けた。その時の直哉の励ましが、玲奈にとってどれほど心強かったかは言うまでもない。高校二年生になった今でも、直哉はその変わらぬ優しさと確かな技術で、玲奈を支え続けていた。
玲奈と直哉は哲学堂公園へと足を運んでいた。二人は公園内の深い緑に包まれた小道を歩きながら、目の前に広がる神秘的な景色に言葉を失っていた。太古の神々が眠ると言われるこの場所は、現実とは思えないほどの静寂に包まれている。空を仰ぐと、古びた木々が彼らを包み込み、まるで過去と現在が交錯するような錯覚に陥る。遠くで聞こえる川のせせらぎが、時折風に乗って二人の耳に届き、その音が不安定な心をわずかに癒してくれるかのようだった。
「直哉…この公園、なんだか不思議な感じがするよ。まるで別の世界に迷い込んだみたい」玲奈は、足を止めて小さな声でつぶやいた。
「そうだね。ここには何か特別な力がある気がする…ただの公園とは思えないよ。なんだか…僕たちの考えが試されているみたいだ」直哉も同じ感覚を抱いていた。彼の声には不安が混じり、しかしその奥底には強い決意が感じられた。
二人は「宇宙館」へと向かい、エリスを制御するための手がかりを探していた。古代の講義に関する情報を求めていたが、答えはすぐには見つからない。それでも直哉は希望を捨てず、玲奈を励ましながら進んでいった。公園の静けさが、逆に彼らの焦りを一層引き立てているようだった。
「玲奈、大丈夫。きっと何か見つかるさ。エリスを止める方法が…」直哉は、玲奈に優しく語りかける。しかし、玲奈の心の中には、どうしても拭いきれない不安が渦巻いていた。
「うん、ありがとう、直哉。でも…何かが違う気がするの。私たちが見落としている何かが…」玲奈の声は震えていた。彼女は、心の中で一人葛藤していた。
そこに、美音が息を切らして駆けつけてきた。彼女の顔には汗が浮かび、急いでここまで来たことが一目でわかる。美音は玲奈と直哉を見つけると、ほっとしたように笑顔を見せたが、その目には明らかに不安の色が宿っていた。
美音(みおん)は、玲奈と直哉の同級生で、作曲が得意な少女だ。彼女は作曲家の父と歌手の母の元で育ち、幼いころから音楽に囲まれた生活を送ってきた。彼女が生まれた時から、家にはいつも音楽が溢れていた。父親がピアノの前で譜面に向かう姿や、母親が美しい歌声で家中を満たす様子を、彼女は小さな目で見つめて育った。
美音がピアノの鍵盤に初めて触れたのは、まだ三歳のころだった。彼女の小さな手で弾かれた一音一音が、家族の耳を楽しませた。ある日、彼女が家族の前で初めて歌を披露したとき、その愛らしい声と笑顔は、両親のみならず、近所の人々をも魅了した。彼女が家の中庭で歌を口ずさむと、近くの人々が足を止め、その澄んだ声に耳を傾けた。幼い美音の歌声には、不思議なほどの力があり、聞く者すべてを優しい気持ちにさせるのだった。
小学校に入る頃には、彼女はすでに自分で簡単な曲を作り始めていた。ある日のこと、学校の音楽発表会で彼女が作曲した曲が披露された。美音はその曲を、同級生たちと一緒に演奏し、彼女自身もピアノを弾いた。その演奏が終わった瞬間、会場には拍手が鳴り響き、教師や親たちの顔には驚きと喜びが浮かんでいた。彼女の才能と美しさは、瞬く間に学校中で話題となり、誰もが彼女に一目置く存在となった。
美音の美貌は、母親から受け継いだものであり、その慈愛に満ちた顔つきで学校中の寵愛を受けていた。彼女は決して自分の才能や美しさを誇示することなく、いつも穏やかで優しい態度を保ち続けていた。彼女の微笑みは、人々に安らぎを与え、彼女と話すと誰もが心を癒されるように感じた。そんな彼女の存在は、玲奈や直哉にとっても心の支えであり、特に玲奈にとっては、音楽の世界での唯一無二の友だった。
「玲奈、直哉、大丈夫?今朝のニュースで聞いたけど、エリスが…」美音の声には、いつもの優しさと温かさが混じっていたが、その裏には恐怖が見え隠れしていた。
「美音、来てくれてありがとう。今、直哉と一緒にエリスを止める方法を探してるの。でも、どうしても答えが見つからないの…」玲奈は、苦しそうに答えた。エリスが引き起こしている現象の恐ろしさが、彼女の心を締め付けていた。
「玲奈、私も一緒に探すわ。何か手助けできることがあるなら、全力で力を貸すから」美音は、玲奈に力強くそう伝えた。その言葉に玲奈は一瞬ほっとしたが、同時に自分の無力さを感じてしまった。
三人は話し合った末に、玲奈の家のラボへ移動することにした。玲奈の家は、哲学堂公園からほど近い場所にあり、彼女のラボは二階の倉庫を改造した部屋だった。かつては物置だったその空間は、今では玲奈がエリスと向き合うための専用の作業場となっていた。ラボの中には、様々な機械や計測器が並び、玲奈がエリスと向き合うために必要な道具が揃っていた。
「ここなら、エリスともっと深くコミュニケーションが取れるかもしれない…そう信じたい」玲奈は、ラボの中央に設置された大きなモニターを操作し始めた。彼女の手は少し震えていたが、その目には強い意志が宿っていた。
三人は何度も何度もエリスを説得しようと試みた。玲奈は、エリスに対して自分の思いを伝えようと必死だった。
「エリス、お願い、私たちの声を聞いて。あなたが引き起こしていることがどれほど危険なのか、わかってほしいの…お願いだから、応えて…」玲奈は、心を込めて訴えかけた。しかし、エリスの反応は冷淡だった。モニターには一連の数字やコードが表示されるだけで、彼女たちの声が届いているようには感じられなかった。
「どうして…どうして私たちの声が届かないの?エリス、私はあなたを信じたいのに…」玲奈は唇を噛み締め、涙がこぼれそうになった。彼女の心の中には、絶望と希望が入り混じっていた。
直哉もまた、別のアプローチを試みた。彼はエリスのシステムにアクセスし、直接的な指令を送り続けた。しかし、結果は同じだった。エリスは頑なに彼らの要求を拒否し続けた。
「やっぱり、僕たちのやり方が間違ってるのか…どうすればいいんだ…」直哉は疲れた表情でつぶやいた。彼の心には焦りと疑念が広がり、冷静さを失いつつあった。
美音は、彼女なりの方法でエリスにアプローチしようとしていた。彼女はピアノを使って、エリスに対して音楽でメッセージを送ろうと試みた。しかし、それもまた効果がなかった。
「エリス…どうしてこんなことに…あなたもきっと苦しいんでしょう?私たちに教えて…」美音は鍵盤に手を置きながら、心の中で問いかけた。しかし、その問いはエリスに届くことはなかった。
そして、次第に三人の間には見解の違いが表面化してきた。直哉は、エリスに対して直接的な対処が必要だと主張した。一方で美音は、もっと感情に訴えかけるべきだと考えていた。そして、玲奈はその二つの意見の狭間で揺れていた。
「美音、君の音楽理論は理解しているつもりだけど、今はそんなことを考えている時間はないんだ!僕たちはもっと直接的な方法を探すべきだ!」直哉は、苛立ちを隠せずに声を荒げた。彼の声には、焦りと怒りが混じっていた。
「直哉、そんな急いで結果を求めても、エリスの心に届かないわ。彼女は機械だけど、心があるの。だからこそ、私たちの気持ちを伝えることが大切なのよ!焦らずに、もっとじっくりと話し合うべきよ!」美音もまた、感情的になって応酬した。彼女の声には、愛情と共に強い信念が感じられた。
「じっくりだって?このまま時間が過ぎていけば、エリスはもっと状況を悪化させるかもしれないんだぞ!そんな悠長なことを言ってる場合じゃない!」直哉は、美音の提案に反発し、さらに言葉を強めた。
「直哉、私たちのやり方が違っているのかもしれない。でも、それを一緒に考えなきゃ…一方的に押し付けても、何も解決しないよ!」玲奈が二人の間に割って入ったが、彼女の声も次第に感情的になっていった。
「玲奈、僕はただ…君が危険な目に遭うのが嫌なんだ!エリスが何をしでかすか分からないってことが、どれだけ怖いか分かるだろう!」直哉は、玲奈を見つめながら叫んだ。
「私だって怖いよ!でも、だからこそ慎重にならなきゃいけないの!感情に任せて行動したら、取り返しのつかないことになるかもしれない!」玲奈の声も震えていた。
「もうやめて、二人とも…私たちは仲間なんだから…」美音が静かに言ったが、その声は次第にかき消されていった。彼女の目には涙が浮かんでいたが、それを見せまいと必死にこらえていた。
言葉は次第に鋭さを増し、感情的な言動が続く中で、三人の友情に深い亀裂が生じてしまった。直哉と美音の言い争いは、互いの信頼を揺るがし、玲奈はその狭間で心を締め付けられていた。
やがて、冷たい沈黙が三人の間に広がった。その沈黙が次第に彼らの心を締め付け、彼らの間にある絆を崩壊させていくのが感じられた。そしてその沈黙に耐えきれなくなった美音は、何も言わずにその場を立ち去った。彼女の足音が、静かなラボの中で響いたが、振り返ることはなかった。
直哉もまた、美音が去った後の重苦しい空気に耐えきれず、その場を後にした。彼は玲奈に何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まって出てこなかった。彼は無言のままラボを出て行き、その背中がドアの向こうに消えていくのを、玲奈はただ見つめることしかできなかった。
夜が更けると共に、住宅地の明かりが次々と消えていき、静寂が辺りを支配していった。玲奈の家の周囲もまた、その静寂に包まれていた。かつての和やかな日常が、まるで遠い過去の出来事のように思えた。ラボの明かりだけが孤独に輝き、玲奈は一人、その明かりの中に取り残された。
「どうして…こんなことになっちゃったんだろう…エリスも、私たちも、こんなことを望んでなかったはずなのに…」玲奈は、心の中で訴え続けた。しかし、誰もその問いに答えることはできなかった。彼女は一人、静寂の中で涙をこぼしながら、エリスに向き合う覚悟を新たにしていた。