●知らない事

私が駆け出しの頃である。
先輩に連れられて、客先の工場へ訪問した。

出迎えた工場長と挨拶の後、延々と雑談が続く。

「ほうほう、そんな苦労があったんですね。」先輩は褒め上手だ。

「今となっては、懐かしい思い出ですよ。」
硬い表情だった紳士は、気さくなおじさんとなっていた。

時計に目をやる。
『そろそろ、次の客先にいかないと...』

「それでは、またお話伺います。」と言って、席を立つ先輩。
『先輩、仕事の話はしないんですかー?』私は心の中でつぶやいた。

「いつでも来て下さいね。」工場長は、笑顔で先輩に握手を求める。

「ありがとうございます。では、次は何かお持ちしましょうか。」
そう言って、先輩は営業品目の書かれた会社案内を手渡した。

工場長は、それをじっとみながら、
「そうだなぁ、あなたシステム屋だったね。ちょっと見てもらえる?」

そう言うと手招きして 先輩を奥に招き入れる。

「ここが、うちらのボトルネックネックかもしれないんだ。
 実はこのモジュールがね……」

なにやら、独特の専門用語がバンバンでてくる。

「なるほど。なるほど。」先輩はメモを取りながら聞いている。

「そうすると。この辺りが自動化できるといいかもしれませんね。」
『え?ほんとにできるの?』私は耳を疑った。

「できるかね。」工場長の声に期待がこめられる。

「いくつか案をお持ちします。一週間後にお邪魔して宜しいでしょうか?」

「明日にでも来て欲しいくらいです。お待ちしていますよ。」


工場を後にして 次の客先へ向かう途上、先輩に尋ねた。
「先輩、詳しいんですね。」

「何が?」

「あの工場長が話していた事、私にはよくわかりませんでした。」

「俺もよくわからん。」
『はい?』またもや私は耳を疑った。

「いいものをやるよ。」
そう言って、先ほど工場長から説明を受けた時のメモを 私に渡す。

知らない単語が、ずらっと並んでいる。

「全部調べといてね。」

『え?知ってるんじゃないの?』
「先輩。意地悪しないで下さいよ。」と言うと。

「いいか、よく聞け。俺が知っているのは、
 客には絶対に 知らないとか、解らないとか言っちゃいけない事 だけだ!」

釈然としない。
「でも、知らない事を引き受けちゃっていいんですか?」

「だから調べるんだよ。お前の脳みそは何の為にあるんだ?
 知らないなんて言ったら、仕事にならんだろうが。」

『そうか、そういうものか』

その後、この工場への提案書作りを任される事になった。

期限は一週間後。
当時は Google どころか、インターネットという言葉もない。

知らない専門用語、製造業の知識、工場のラインの制御など、提案の下調べに
奔走することになる。

不思議な事に、調べれば調べるほど、あの工場長の言っていた ボトルネックの
意味が解ってきた。

一通り下調べが終わった時、頭の中には提案書のイメージが、ほぼ出来ていた。


その翌週。

「宜しくお願いします。このシステムに期待してます。」
工場長は、判を押した契約書を先輩に手渡す。

その晩、祝杯をあげたのは 言うまでもない。


●調べればいい

正直に話せばいいと思っていた私は、浅はかだった。

確かに、客の立場から考えればわかることだ。
せっかく説明しても、「解らないですが」と言われたら 気分が悪い。

知らないのに「知ってます」と、嘘を言うのはどうかと思うが、せめて
「ほほう」、「そうですか」などいった相槌を打つのは許されると思う。

少なくとも、相手の事を解ろうとする姿勢を持つ事は重要だ。

知らない事は、調べればいい。

「客には 絶対に 知らないとか、解らないとか言っちゃいけない。」


IT業界は、多岐にわたる業界の業務に対処しなければならないので、
今になっても時折、聞いた事のない言葉を使うお客様がいます。

その時は、この言葉を思い出し、より最適な提案を考えています。

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