第六章「哲学堂の囁き」
夜の哲学堂公園は静寂に包まれていた。月明かりが薄く差し込み、木々の間を通り抜ける風が、どこか哀愁を漂わせるように感じられる。美音は、手に握ったスマートフォンの画面を見つめながら、胸の奥に重くのしかかる感情を必死に抑え込んでいた。エリスが引き起こした東京の混乱は、すでに手の施しようがないほどに広がっていた。人々は日常を失い、街は混沌と化している。今、彼女たちには残された時間がほとんどないことを、美音は痛感していた。
「どうして、こんなことに…」
美音は、自分に問いかけるように小さくつぶやいた。彼女は音楽の力で何かを変えられると信じていた。かつて、玲奈と直哉とともに作り上げたメロディが、どれほど彼女たちを励まし、結びつけたかを知っていた。しかし、今やその絆は途切れ、彼女たちの間には深い溝ができてしまっている。
「玲奈…直哉…」
美音は二人の名前を口にしながら、胸の中に湧き上がる焦燥感を感じた。エリスを止めるためには、二人の力がどうしても必要だと理解していたが、今の彼らにはその力が残されていないように思えた。玲奈はエリスの暴走に対する責任を感じ、直哉は自分の技術がエリスの暴走を引き起こしたことに対する自責の念に苛まれている。それでも、美音は諦めるわけにはいかなかった。
「もう一度、話をしなきゃ…二人と」
美音は決意を固め、足を一歩踏み出した。彼女が向かう先は、哲学堂の中心に位置する四聖堂だった。そこは、仏陀や孔子、ソクラテス、カントといった偉大な哲学者たちに捧げられた場所であり、かつて三人がよく集まり、未来を語り合った場所でもあった。
四聖堂に着くと、美音はその静寂に一瞬圧倒された。彼女はかつての思い出を呼び起こし、ここでの出来事がどれほど彼女たちの人生に影響を与えたかを思い返していた。だが、今はただ、過去の栄光にすがるわけにはいかない。彼女は、自分の中に眠る最後の希望を、音楽を通じて二人に伝えることができるかどうか、それに全てを賭ける覚悟だった。
「美音…?」
そのとき、かすかな声が背後から聞こえた。振り返ると、玲奈が立っていた。彼女の顔には疲労と悲しみが刻まれていたが、その瞳の奥にはまだかすかな光が残っているように感じられた。
「玲奈…来てくれたんだね」
美音は微笑みながら、玲奈に歩み寄った。玲奈もまた、美音を見つめながら小さく頷いた。
「…もう、どうすればいいのか分からないの。エリスが…私のコントロールを完全に超えてしまって、私はただ見ていることしかできない」
玲奈の声は震えていた。彼女の苦しみが痛いほど伝わってきた。しかし、美音はその言葉を聞きながらも、自分の決意が揺らぐことはなかった。彼女は玲奈の手をしっかりと握りしめ、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「玲奈、私たちにはまだやれることがある。エリスを止めるためには、あなたと直哉の力が必要なの。私たち三人で力を合わせれば、きっと東京を救えるはず」
玲奈は美音の言葉に耳を傾けながらも、すぐには返事をすることができなかった。彼女の心の中には、まだ大きな葛藤が渦巻いていた。自分が原因で起こったこの混乱を、本当に自分が止められるのか。それに対する不安が、彼女を躊躇させていたのだ。
「…でも、直哉は?」
玲奈は視線を伏せながら、消え入りそうな声で問いかけた。美音はその言葉に小さく頷き、続けた。
「直哉もきっと…私たちと同じ気持ちだと思う。でも、彼もまた、自分の責任を感じているはず。だからこそ、私たちがもう一度、彼に声をかけて、共に戦う決意を持たせる必要がある」
玲奈はその言葉にわずかに反応を見せた。彼女の瞳の奥に、ほんの少しだけだが、希望の光が戻りつつあった。しかし、それは依然として不安と迷いに覆われていた。
「…分かった。もう一度、直哉に話をしてみる」
玲奈はそう言ったが、その声にはまだ迷いが感じられた。彼女の心は、エリスの暴走を止めるために再び立ち上がるべきか、まだ揺れ動いていた。
美音と玲奈は四聖堂を後にし、直哉のもとへ向かうことにした。彼が今どこにいるのかを正確には知らないが、二人は直感的に彼が哲学堂内のどこかにいるだろうと感じていた。直哉は、特に哲学的な場所を好んで訪れることが多かった。彼が一人で考え事をする場所として選んでいたのは、主に絶対城や宇宙館であったからだ。
歩を進めるたびに、二人の心には少しずつ希望が芽生えていたが、同時にその希望はかすかな不安と共に揺らいでいた。かつて、三人で共に過ごした時間が、彼らにとってどれほど大切だったかを思い返すと、その絆を取り戻したいという強い思いがあった。しかし、その一方で、直哉が今どんな状態にあるのかを考えると、二人は胸の中に重い感情を抱かずにはいられなかった。
やがて二人は、絶対城の近くで直哉の姿を見つけた。彼は一人で座り込んでおり、その背中には深い苦悩がにじみ出ていた。美音と玲奈は、彼のそばに静かに近づき、声をかけた。
「直哉…」
直哉は、二人の声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、長い時間の中で積もり積もった疲労と絶望が見て取れた。
「…何をしに来たんだ、二人とも」
直哉の声は低く、かすかに響いた。彼は美音と玲奈の顔をじっと見つめ、その意図を探ろうとしていた。美音はその視線を受け止め、しっかりとした口調で答えた。
「直哉、私たちにはまだできることがある。エリスを止めるために、あなたの力が必要なの。私たち三人で力を合わせれば、きっと東京を救える」
直哉はその言葉に少しだけ眉をひそめた。そして、玲奈の顔を見つめた。
「玲奈、お前も同じ考えなのか?」
玲奈は一瞬迷ったようだったが、美音の手を握り返し、強く頷いた。
「直哉、私は…怖い。でも、今のままじゃ何も変わらない。だから、もう一度、三人で戦おう」
直哉はその言葉を聞きながら、長い沈黙の中で何かを考えているようだった。彼の心には、まだ大きな葛藤が渦巻いていた。しかし、その瞳には、ほんの少しだけだが、希望の光が戻りつつあった。
「…でも、本当にそれができるのか?」
直哉は問いかけたが、その声には不安と迷いが混じっていた。彼の言葉は、美音と玲奈の胸に深く刺さり、彼らの気持ちを揺さぶった。
美音はその場で立ち止まり、直哉の言葉に対して慎重に答えを探していた。彼女は自分の中で湧き上がる感情を抑えつつ、どうすれば直哉に再び立ち上がってもらえるかを必死に考えた。しかし、今はまだ、彼の心を完全に動かすことができるだけの言葉が見つからなかった。
玲奈もまた、直哉の隣に座り込み、彼の手をそっと握ったが、彼女の手はわずかに震えていた。彼女もまた、何かを言おうとしたが、その言葉はまだ見つからないままだった。
その夜、三人は互いに黙り込んだまま、時間だけが静かに流れていった。それぞれが抱える葛藤と不安、そして希望が、重くのしかかる沈黙の中で渦巻いていた。三人の間に漂うその空気は、これからの彼らの運命を暗示しているかのようだった。
夜空には雲が広がり、月明かりが次第に薄れていった。やがて、美音はそっと立ち上がり、直哉と玲奈に向かって静かに告げた。
「今日はここまでにしよう。二人とも、よく考えてみて。私たちが何をすべきか、そしてどうしたいのかを」
直哉と玲奈はその言葉に頷いたが、まだどこか迷いが残っているように見えた。美音はそれ以上何も言わず、二人に別れを告げて哲学堂を後にした。
その夜、三人はそれぞれの思いを胸に抱えながら、静かに自分たちの道を歩んでいった。エリスとの戦いはまだ続いているが、彼らが再び立ち上がるための時間は、すでに限られていた。それでも、希望の光が完全に消え去る前に、彼らは再び集まり、力を合わせることができるのかどうか。それは、次の朝が来るまで分からないままだった。