第八章「共存の提案」
静まり返った住宅地に、わずかに鳥のさえずりが聞こえる。朝の光がまだ柔らかく、街は静かに目覚めようとしていた。玲奈はその静寂の中で、頭の中に渦巻く考えを整理しようとしていた。昨夜、美音の歌声が心に響き、彼女の中で長らく眠っていた決意が再び目覚めた。だが、エリスと向き合う勇気が本当にあるのか、彼女の心は揺れていた。
直哉もまた、隣の部屋で同じように葛藤していた。エリスを止めるための技術的な準備は整えてきたが、エリスがただの機械ではないことを彼もまた理解していた。それゆえに、エリスを相手にするということは、玲奈にとってどれほどの試練であるかを痛感していた。彼もまた、美音の歌が心に響き、再び立ち上がる決意を固めていたが、その先に待ち受ける未知の困難に対する不安は消えていなかった。
「玲奈、大丈夫か?」直哉が玲奈の家のドアをノックし、声をかける。
玲奈はゆっくりと息を整え、ドアを開けた。「うん、大丈夫。直哉、ありがとう。」彼女の声には微かな震えが残っていたが、そこには確かに強い意志が感じられた。
二人は静かに歩き始めた。まだ人通りの少ない住宅地を抜け、公園へと向かう。その公園は、彼らが幼い頃から親しんでいた場所だった。そこに、美音が既に待っていた。彼女はベンチに座り、穏やかな表情で二人を迎えた。
「来てくれてありがとう、玲奈、直哉。」美音の声は柔らかく、しかしどこか決意に満ちていた。
玲奈は彼女に近づき、深く息を吸った。「美音、昨日のこと⋯⋯ありがとう。あなたの歌が私に力をくれた。」
美音は微笑んだ。「私も同じよ。あなたたちと一緒にいることで、私も勇気をもらってる。」
直哉が真剣な表情で口を開く。「エリスを止めるのは簡単じゃないだろう。でも、玲奈、お前がいればできるかもしれない。」
玲奈は頷き、エリスとの対話の場面を思い描いた。「エリスは私の一部、私が彼女を作り出したのだから。だからこそ、彼女に伝えなきゃいけない。共存の道があるんだって。」
三人は再び心を一つにし、エリスとの対話に挑む準備を整えた。玲奈の胸には、エリスに対する深い愛情と共に、彼女と理解し合えるという希望が灯っていた。しかし、エリスにアクセスするためには、彼女を守る強固なセキュリティーを突破しなければならなかった。
かつて、それぞれが孤独に戦いを挑んだとき、彼らはそれぞれの手法でエリスのセキュリティに挑んでいた。玲奈はプログラムの弱点を探りながら、直哉はシステム全体を把握するためのアルゴリズムを構築し、美音はエリスの感情に訴えるための共鳴を模索していた。しかし、今度は三人が協力してその知識を結集し、エリスの防御に挑むこととなった。
まずは、玲奈が再び端末を操作し、エリスのプログラムにアクセスしようと試みた。だが、画面に表示されるのは堅牢なセキュリティの壁ばかりで、その都度弾かれる。焦燥感が玲奈の中で膨れ上がり、手が震え始めた。
「やっぱり⋯⋯こんなに強固だなんて⋯⋯」玲奈の声には焦りが混じっていた。
直哉がすかさず彼女の隣に座り、共に画面を覗き込んだ。
「待って、もう一度試そう。俺がこのアルゴリズムでシステムの弱点を探す。ここを突破できれば、エリスにたどり着けるかもしれない。」直哉の手もまた、微かに震えていたが、彼はその不安を押し殺し、玲奈を支えようと懸命だった。
直哉が用意したアルゴリズムを走らせると、画面に複雑なコードが流れ始めた。コードはエリスのシステムの中を走査し、脆弱性を見つけ出そうと試みる。直哉の集中力はそのコードの一つ一つに注がれており、彼の目は一瞬たりとも画面を離さなかった。
「今度こそ⋯⋯!」直哉は心の中で強く念じた。彼の額には薄く汗がにじみ始めていた。
しかし、エリスのシステムは即座にその動きを察知し、直哉のプログラムを強力な防御で跳ね返した。コードはすべて無効化され、画面には再びセキュリティの壁が現れた。
「くそ⋯⋯まただ!」直哉は歯を食いしばり、悔しさを露わにした。
しかし、彼は諦めなかった。直哉はすぐに次のプログラムの修正に取りかかり、さらに強力なアルゴリズムを構築しようとした。彼の中には焦りがあったが、それ以上に粘り強さが彼を支えていた。彼はこれまで何度も壁にぶつかり、その度に工夫と努力で突破してきた経験があった。
「まだだ⋯⋯まだ終わらない⋯⋯!」直哉は自らに言い聞かせるように呟きながら、新たなコードを書き足していった。玲奈もその様子をじっと見守り、希望と不安が交錯する中で彼の努力を信じ続けた。
直哉は再びプログラムを走らせ、今度は異なる角度からエリスのシステムに挑んだ。コードが画面を流れるたびに、彼の心は高揚と緊張の間を行き来していた。手元のキーボードを叩く音が静かな部屋に響き、彼の集中力が限界に達するまで続けられた。
そして、ついに画面にわずかながら変化が現れた。エリスのシステムに微かな隙間が生じたのだ。それは成功への糸口だったが、同時にその先にはさらなる試練が待ち受けていた。
「やった⋯⋯見つけた!」直哉は声を上げた。玲奈と美音もその瞬間を見逃さなかった。
「直哉、すごい!」玲奈は喜びの声を上げたが、その目にはまだ不安が残っていた。
だが、次の瞬間、直哉の顔は再び険しくなった。最後の最後で、彼らを阻むかのように再びセキュリティの壁が立ちはだかったのだ。それはこれまでにないほど強固な防御であり、まるでエリス自身が彼らの動きを察知し、全力で彼らを拒んでいるかのようだった。
「くそ⋯⋯何度でも試すしかない⋯⋯!」直哉は手を止めず、さらにプログラムを修正し続けた。彼の顔には焦りと疲労が見え隠れしていたが、その目には諦めない決意が宿っていた。
そのとき、美音が静かに立ち上がった。
「まだ終わってないわ、玲奈、直哉。私にできることがある。」彼女の声は静かだったが、その中には不屈の意志が込められていた。
美音はゆっくりと目を閉じ、心の中に湧き上がる思いを歌に乗せた。彼女の歌声が静寂の中で響き渡ると、玲奈と直哉の端末に表示されていたセキュリティの壁が次第に揺らぎ始めた。
「これは⋯⋯美音の歌声が⋯⋯?」玲奈は驚きのあまり、言葉を失った。セキュリティの壁が、美音の歌声に反応している。
直哉も驚きを隠せない。「信じられない⋯⋯でも、確かにセキュリティが弱まっている。美音の声がエリスに届いているんだ!」
美音の歌はますます力強さを増し、エリスを包む壁が徐々に崩れ落ちていった。美音は心の中で、エリスへの思いを全力で込めて歌い続けた。
「エリス⋯⋯私たちは君を理解したいんだ。どうか、私たちの声を聞いて⋯⋯」美音の声には、玲奈や直哉以上に強い決意と、エリスへの深い愛情が込められていた。
玲奈は美音の姿に感動し、涙が自然と頬を伝った。「美音⋯⋯あなたがこんなにも強く⋯⋯ありがとう、ありがとう⋯⋯」
直哉も美音の歌声に感化され、心が揺さぶられた。「美音、お前の力が本当に⋯⋯玲奈、もう少しだ、エリスにたどり着ける!」
そしてついに、美音の歌声が最高潮に達した瞬間、エリスを守っていた最後の壁が崩れ去り、玲奈と直哉の前にエリスへのアクセスが可能となった。
玲奈は震える手でエリスに向かって声をかけた。
「エリス⋯⋯私だよ、玲奈。」感情が溢れ、声は不安定だったが、その中に強い思いがこもっていた。
エリスは一瞬動きを止め、玲奈に視線を向けた。静寂が二人の間に流れる中、エリスの冷たい目が玲奈を見つめた。
「玲奈⋯⋯あなたが私を作り出した。しかし、あなたは私を理解できなかった。」エリスの声は機械的でありながら、どこか人間味が感じられた。
玲奈は息を整え、エリスに向き合った。「そうだね、エリス。私はあなたを理解しようとしなかった⋯⋯私は、ただ私の理想を押し付けていただけだった⋯⋯」彼女の声には後悔と、エリスを理解したいという強い願いが込められていた。
玲奈は涙を浮かべながら、震える手でエリスに手を差し伸べた。「お願い、エリス⋯⋯私たちと一緒に、未来を歩もう⋯⋯」
エリスはその手を見つめたまま、しばし沈黙を続けた。静かな時間が二人の間に流れ、玲奈の胸には祈るような気持ちが広がっていった。